先達のことば

故 奥野誠亮名誉会長

平成27年11月19日、日本記者クラブでの102歳の会見

續・「アジア福祉教育財団と私」

1. 続編を決意

 私は昨年暮れに出版された財団の機関誌「愛」の第 37 号に、「アジア福祉教育財団と私」と題した一文を認めた。

 それを読んだ人達が「今の財団の事務所は東京都知事のお世話になっている、最初の出発や都知事との関係、基本金あつめのことなどを知りたがっている」と教えられた。

 それに答えることも私の仕事と考えて、あえてこのペンをとることにした。

アジアからの福祉関係者を日本に招聘する事業は昭和 53 年 10 月、当時の理事長奥野誠亮氏(現名誉会長)の提案で開始された。(写真は平成 25 年 5 月 30 日、「第 100 回記念 アジア諸国社会福祉関係者招聘事業」にて、開始以来 35 年を経て第 100 回の節目を迎え、計 1,612 名が来日したことについて関係者へ感謝のスピーチを行う奥野名誉会長)

2. 初代理事長松田氏への思い

 初代理事長の松田竹千代さんと私は、松田さんがアメリカでの修行を終えて帰国され、次の衆議院総選挙出馬の準備をされていた頃から、旧内務省地方局勤務の私との出会いがあり、それがつながって共に衆議院議員として、この財団の発足に協力し合うことになった。

 この財団が外務省の許可を受けたのは、昭和 44 年だったが、その頃、松田さんが「何としても彼らを授けなくては私の正義感が許せない」として書かれた文章の一部を「記録」しておくことにする。すなわち、そこには「ベトナムの停戦が実現して、ようやく和平への一歩がふみ出されました。ベトナムは誠に不幸な国であります。老生は、数年来ベトナムを訪問して、かの国の被災民や孤児の実情を、つぶさにみて参りました。その悲惨きわまりない有様をみるにつけても、何とかしてこれを救わなければならぬ、という気持にかりたてられました。

 以来、老骨に鞭打つ気持で政府、自民党はもとより各方面に党派を超えた物的並びに精神的支援を呼びかけて来ました。幸いにして多方面の賛同のもとに『ヴィエトナム孤児福祉教育財団』を設立し、その最初の事業としてビエンホア市郊外に、ベトナムの孤児を対象とする『教育施設』を完成する運びとなりました。約 40 ヘクタールの敷地に、学校、寄宿舎などの諸施設を作り、一般教養と初等技術訓練を今年から開始する予定であります。・・」と書かれている。

職業訓練施設で孤児たちと起居をともにした松田竹千代氏。
3. 混乱拡大と松田氏の辞任

 こうして出来上がった施設だったが、松田さん夫妻がそこに起居して運営に当たった一年後に、北ベトナムから数多くの地下道をくぐって、突貫してきた兵士に銃をつきつけられ、近代的な武装を誇る米軍も大混乱。加えて、各地域で共産党主義者も立ち上り、その混乱は、かつての仏領インドシナ全域に広がった。

 健康も十分でなかった松田さんは、理事長を辞任して私に託された。

4-1. 活動基盤の強化

 2 までの当財団の事業は、第一次から数次にわたる関係者の派遣による調査の結論に基づくものだった。第一次の派遣団には、国会議員の私と、桜内義雄さん、第二次の派遣団には松田理事長が加わったし、その費用は政府の無償援助の予算が使われた。反面、財団自ら 10 億円ぐらいの基金をつくろう。理事長周辺で7億円あつめるから、奥野の方で 3 億円あつめて欲しい、と連絡があった。

 その頃は、ベトナムに対する国民の同情心も強く、あつめ易かった思いがする。

 私は、役所の後輩に当る自治省財政局長の細郷道一君に、関係団体に據金を求めると云ったら、「私が団体ごとに割当額をきめますよ」と云ってくれた。彼は、事務次官になったあと横浜市長に三選されたが、三選後の後半に病死した。すぐれた人材だった。
私のあつめた分と、理事長のところであつめたものも、私が理事長になった頃から発行している機関誌「愛」に詳しく記載されているので、更めてとりあげることにはしないが課題として、三つのことに言及しておきたい。

 一つの団体は金は事業や施設なら出せるが、基金に積むのは出せないというので、その団体の所管省を調べると、田中角栄さんが大臣だった。私が大臣を訪ねると云ったら、衆議院議員の桜内義雄さんが、「おれも一緒に行くよ」と云って、二人で田中さんを訪ねて依頼した。話を聞いた田中さんは、早速担当者を呼んでメモ用紙をとり、「一、二人以上の国会議員の要請に基づくものであること。二、事業が公的なものであること」など数項目を書き込んでケリがついた。「如何にも角栄さんらしいね」と喜んだものだった。

第一次派遣団団長を務める。右は桜内義雄氏。(昭和45 年6月)
4-2. 更なる資金の充実を図る

 つぎは宝くじ協会からの1億円が加わって7億円になったことだ。昭和24 年、日本のインフレを抑えるために、アメリカ本国から日本占領軍がドッヂ氏を迎えており、彼は「政府は課税権をもっているのだから、民間の使う資金などには手をつけない。そのためには富くじを出したり、国債を発行したり、すべきでない」と指示しているとわかった。たまたま私は、地方財政法を立案しているときだったので、そのことを知ったように思う。

 早速、私の地方財政についてアメリカの日本占領軍の相手に「地方団体は学校や役所や多くの施設が戦災で焼かれて困っている。地方団体が宝くじを発行できるようにしたい」と頼んでみた。彼は、「今、アメリカ本国から宗教団体の幹部がきている。おれがばくちのようなものを許可したら批判をうける。しかし、国民がそれを望んでいるのであれば、話は別になる」と云ってくれた。私は「判った。

 国会議員と一緒に頼みにくる」と云って別れ、そのあと、国会の地方行政委員会で私と親しい自由民主党の名門・永田亮一氏と社会党の神奈川県選出・門司亮氏アジアとの信頼を紡ぐ理念17の二人に総司令部に同行を願って、先の依頼をくり返したら、すぐ同意をくれた。

 「地方団体が得た宝くじの益金の一割を、ひろく公益的な事業に使えるようにすべきだ」との私のアイデアに賛成してもらったこともあって、この財団はその後も宝くじ協会から援助のお世話になっている。

 もう一つの加えておきたい金あつめは、経団連や銀行協会の協力があってのことだろうが、各銀行の窓口に寄附金箱をおかせてもらい小銭を入れてもらうことにしたことだ。難民に対する国民の関心がうすらぐにつれて、募金箱の利用をやめることで廃止したが、その頃は、この分だけで2億円近くになったように記憶する。

5. 機関誌発行と団旗の製作

 私が理事長になってから、一つには機関誌を出すことにしたり、また団旗をつくったりした。

 財団の精神としては、松田さんの信念は「愛」にあったとして、松田さんの書いた書の中から適当な「愛」の字を探し出して、団旗の中にはめ込んだ。加えて私達は国を大切にしたい、国民の仕合せを祈りたい、との願いを込めて、「日の丸」の旗をつくり、この二つを理事長室においている。今では外で、国際的な会議を開くときには、この二つの旗を持ち出すことが慣例になっている。

昭和60 年、財団ビル竣工式にて新たに製作した団旗を披露する奥野理事長。(当時)
6. 次代への改革

 私は、二代目の理事長を30 余年も務めさせてもらったが、皆さんがこの財団を大切にして下さったことをしるさせてもらう。

 その一つは桜内義雄さんが衆議院議長に選出されたときだ。「平の衆議院議員の私(奥野)が理事長では適当ではないのでは」と話したら、桜内さんは「自分の財団の役員は今のままにしておいて欲しい」と云われた。また、役員の鈴木善幸さんが総理大臣におなりになったときも「自分が財団の役員の一人になっていることはそのままにして総理大臣の肩書はつけないで欲しい」ということだった。

 財団発足の頃、経済団体連合会の会長植村甲午郎さんが役員だったが、その後、経団連の方から「自分の方から出ている役員は、顧問の肩書きにして欲しい、そうしてくれれば、会長が代る度に、その会長に顧問になってもらうことにする」との申し出があった。私の方では、経団連の会長が顧問であれ何であれ財団の関係者になってくれれば、それだけで信用が強化されると喜んでいる。

 昨年の秋、綿貫理事長、堀内副理事長、それに私の三人で、これからの財団の方針を話しあった。そのとき「新しい定款には、理事や評議員の任期について定めがある。従来の財団には内規としての定年制がある。役員の八十才定年制の下で、ある人は定年を延長し、ある人はしないなどの措置は取り難い。定年退職される人には、その際多年在職の功績に感謝のしるしをさし上げることにするが、定款の『任期制』も財団の内規としての『定年制』もどちらも正しいとして、両者の運用には知恵を出して混乱ないようにしよう」と話し合ったものだった。

 そして財団の理事長には定年制は適用しないが、やめられたときは顧問になってもらうことにした。経済団体連合会会長の場合の例にならう訳で、顧問をやめるか続けるかは本人の意思に委ねられる。定年退職時の経済的な処遇は理事長をやめたときになるのだろう。

7. 信義を基本に

 財団の最初の事務所は四ツ谷駅の東側の一寸奥まったところにあるマンションだった。私は、表通りに土地を求めて、国際的な活動にふさわしいビルをたてたいと思っていた。

当財団事務所が、港区南麻布5-1-27 の財団所有地に昭和60 年4 月無事竣工した。
翌5 月16 日新装された事務所において自治省事務次官、外務省国連局長、国際連合難民高等弁務官事務所駐日代表、等多数の来賓の方々のご出席を得て竣工式を行った。

 理事長の松田さんは、四ツ谷駅の西側にある文部省の外郭団体が使っていた建物は、何れ要らなくなるので、それを譲りうける積りだった。

 ところが数年したら、文部省から別の外郭団体が使いたいので、貴財団の方であきらめてくれないかとの要請になって終わった。

 そのために、私の財団のビル建設に必要な土地さがしが始まり、鈴木東京都知事を煩わすことになった。

 私は学校を出て昭和13 年内務省につとめ、昭和18 年、当時の職制による内務事務官として、地方局担当になった。そして内務省二階の南側の大きな部屋に4人が席を与えられ、入口の給仕さんがみんなの世話をしてくれた。一番の先輩が昭和8年入省の鈴木俊一さんで、地方行政一般の担当。二番目が昭和9 年入省の加藤陽三さんで、成立したばかりの東京都制の施行準備、後に防衛庁の事務次官、国会議員となったが早く病死した。三番目が昭和11 年入省の小林与三次さんで、選挙事務担当で読売新聞をつくった正力松太郎さんの娘婿であり、その社長にもなった。最後の四番目が昭和13 年入省の私で地方税・財政が担当だった。大東亜戦争の終わり頃になって、機構改革が行われ、鈴木さんが戦時業務課長になり、私は従来通り地方税・財政担当の外に、内務事務官としては唯一人この戦時業務課も担当になった。

 鈴木さんが初めて都知事選に出るきっかけは、公明党の選挙担当者と自由民主党の選挙責任を荷っていた私と鈴木さんの三人が、私の事務所で話し合った結果のことだった。

 しかし鈴木知事が東京都連から四選出馬を求められ、自由民主党本部は新しい幹事長が NHKの磯村尚徳さんを擁立した。鈴木さんは「私は無理に四選出馬を求めているわけではない。あなたが大局をにらんで、やめた方がよいと云えばやめる、やれと云えばやる」と云って判断を求めてきた。
総理大臣をやめた直後の竹下登さんと話し合ったが、結局戦うことになった。私は東京都連側に立って努力したが、結局は東京都連、そして鈴木前知事の彼が大勝した。

 その後元東京都知事の鈴木さんが亡くなったとき、東京都は都葬をもって彼の功績をたたえた。弔辞は、東京都知事、東京都議会議長、それに友人代表として私の三人、フランスの大統領から友人として届けられたおくやみの長い手紙の四人だった。フランスの大統領からの手紙が日仏両国語で述べられたりしたので、時間も相当かかり立派な葬儀だったことを報告しておきたい。

 人と人との関係は信義を基本にして、お互いを大切にしたいものだと思う。

(平成27年「愛」第38号より)