先達のことば

故 奥野誠亮名誉会長

平成27年11月19日
日本記者クラブでの102歳の会見

アジア福祉教育財団と私

1. 稿を起こすにあたり

 昨年の秋、当財団の恒例の事業の一つであるが、アジアの国々から招いた人達の歓迎のパーティーで、たまたま理事長に所要があって私が挨拶することになり、この事業の歴史にふれたところ、パーティーが終わってから「その挨拶を記録に残しておいてくれたら」という意見が出てきた。それならということで、表記の題でこの一文を書くことになった。

 もう 70 年近くの昔のことになったが、大東亜戦争に敗れた日本は、食料難で米も切符制だった。私は学校を出て旧内務省に入り、戦後は一貫して、その地方局(府県や市町村を所管)の系統の組織で仕事をし、最終段階では自治省事務次官であった。

 外で仲間と食事したり、会合を持ったりするために使った場所は、赤坂見附の近くにあった小料理屋の「うたむら」だった。そこはまたアメリカ帰りで大阪府泉南地区出身の、松田竹千代さんのね城だった。そこで教わった一つに、アメリカ人は、何でもハイハイと応じる人物よりも、大いに意見を述べる人間の方を尊敬するものだ、ということだった。私がマッカーサー占領軍の事務当局と接触する際、そんな気持で対応するものだから、税制のことで占領軍側と話し合っての帰りに、大蔵省の主税局長さんが、「奥野君はズバリズバリ占領軍にもの言うんだね」と評したことを今に覚えている。

2. 創立時の想い出

 その後松田さんは河野派の一員として、大阪府泉南地区の選挙区から衆議院議員として当選し、文相もつとめた。

 ある時期、松田さんはベトナムのホーチミン氏に会おうとしたが、先方から「今はそんな時機ではない」と断ってきた、と聞いた。そのあと松田議員は自由民主党の両院議員総会で「日本は平和のうちに安穏にくらしているが、南ベトナムでは、戦闘が続き両親が殺され孤児が沢山生まれている。この孤児を救うぐらいのことをしてはどうか」と、提案された。みんながそれに賛同し、結局全議員が、毎月の報酬の中から月5千円、10 回で5万円宛拠出することになり、それを基本金として財団をつくることになった。

 自民党総裁だった佐藤栄作さんが「松田君でまとめあげられるかね」と私に不安な顔をされたので、私の考えていることを順序を立て説明したら、あとは何も言われなかった。
 松田さんは大まかにみえるが、議員秘書の黒正静子さんがしっかりしていてこの財団が創立の際から、その受領する金銭に対する課税免除をうける官庁の手続はすませてくれていた。そんなこともあり、この団体の役職員の定年制をきめたいというときに、団体創立の時にその役職にあった者にはこれを適用しないという規定をつけさせてもらった。創立のときのみんなの気構えにも貴重なものがあったと思っている。

佐藤栄作氏からはあつい信頼を得ていた。

3. ベトナムを視察

 活動を開始する前に、現地を視察して今後の活動要領をしっかりきめる必要があるということで、何班かの視察団が送られた。最初の組に、私と衆議院議員の桜内義雄さんが加わった。

 南ベトナムでは、日本の無償援助資金で建設された病院が立派な活動を続けており、好評をうけていた。私達を迎えてくれた日本の大使は北原秀雄さんで、東京の第一高等学校で彼は陸上競技部の選手、私は庭球部の選手で、京都の三高との間の毎年の対抗戦には、必勝を期しての「応援団の結成と選手の宣誓」の行事に参加してきた仲間だった。彼は現地に赴任した夜、どこからともなく「ピンピン鉄砲玉がとんでくるので、水を張っていない風呂にとびこんで、かがんだままで弾丸をよけた」と話してくれた。彼の連絡で米軍の大きなヘリコプターを出してもらい、南ベトナムを一周し、ところどころでヘリコプターを降りては、大きな爆弾を落とした穴をみたり、林間の建物のない中で行われている教育の現場を拝見したりした。澤山の弾丸や戦時用品の積まれた姿をみては、その後のベトナム側の急襲による米軍の敗北など予想もしなかった。

戦時下の南ベトナムを視察に訪れ、日本からの救援物資として医薬品を手渡す奥野現名誉会長。ユエ市長レ・バン・タン大佐からは、テト攻勢(昭和 43 年春)で大きな被害をうけたユエの一般情勢と難民の実情を聞いた。
4. 理事長を受ける

 こんな調査などで、私達の団体が何をすべきかが決まって行った。
それには、現地に孤児の為の職業訓練施設をつくる。その用地は南ベトナム政府が提供する。建物の建設には差当り日本政府の無償援助の資金を充てる。運営には当財団が責任を持つということだった。

 万事順調に進み、孤児も収容し、松田理事長夫妻も住み込んで1年したとき、北ベトナム側の急襲により南ベトナムが崩壊、職業訓練施設も北ベトナムに接収された。その後当財団による施設の運営の目途が立たないまま松田理事長の健康に問題があり、あとを私に託して「やめたい」旨の申出があった。役員皆さんの賛成で私が松田さんのあとをひきうけることになった。

 私が、「孤児収容所がどうなっているか」問い合わさせても返事がない、「薬品を送る」というと「うけとる」という、こんなことでは目途がたたない。他にも事情があって、今後の活動方針を求めて、秘書1人をつれ、東南アジアを廻ることにした。

5. 難民定住事業の始まり

 話の多くは、旧仏領印度支那と言われた地域から共産主義化の波におそわれた人達の国外への逃亡という混乱だった。

 日本ではまだ世界難民条約の批准はしていなかったので、表面的には難民の上陸は許していなかったが、既に相当数の難民が日本にたどりつき、宗教団体などのお世話になっていた。カリタス・ジャパンという団体が一番多くの難民をお世話してくれていたが「もうこれ以上は困難だが、施設をつくってくれたらお世話する余力はある」との話をきき、2,000 万円の金を渡したりして、その活動を援助していた。

 また、旅行中「定住」という観念を理解したことなどもあって、帰国後、国会の予算委員会の場で外務大臣との質疑に1時間を頂き、難民対策の改善を主張した。それが、当財団の任務になったのだが、国会の会議録(P22 ~ P24 に掲載)にも書かれているので、ここでの話はしないことにする。

 難民事業の委託をうけるに当って、当財団の組織に難民事業本部を置くこと、本部長は国家公務員を財団に出向させるから、財団の方で本部長として任命すること、さらに財団の名称に福祉の言葉が入っているので、難民事業はそれで読みとることにした。

 その後、毎年決算で多額の剰余金を返上するので、使うべきものを使わないので出た剰余金ではないかと注意していたら、消費税を払えという問題が起こってきた。結局難民事業本部で負担しきれない数千万円をこちらで負担するなどをしてきたが、与野党の若い国会議員の中で、この難民に関する政府の委託事業を自分達でやりたいなどの動きがあったりした。

衆議院予算委員会で、インドシナ難民の受け入れについて園田直外務大臣を質す奥野理事長(当時)。(昭和 53 年2月)

 難民定住のための施設は、最初は神奈川県大和市と兵庫県姫路市に設置されたが、中曽根首相のとき「もっと大勢を収容できる施設をつくるべきだ、栃木県の方で民間企業が大がかりな宅地開発事業を進めているので、そこを利用できるのではないか」との連絡があった。そこで栃木県を選挙区にしている藤尾正行代議士に頼んで交渉してもらったが「住民が不安がるので」ということで受け入れてもらえなかった。私は「寧ろ都会の方が受け入れてもらえる可能性が大きいのではないか」と東京都知事に相談したら「旧国鉄が品川辺に広い埋立地を持っている。そこの一部は譲ってもらえるのでは」とのアドバイスがあった。

 早速話をしたら、気持よく譲ってくれた。そこに当面 500 人ぐらいの難民を受け入れられる施設をつくってくれて、開所式には中曽根首相に、理事長の私も参加し、そのあと難民との座談会もしたものだった。

 ベトナム、ラオス、カンボジアを逃げ出した難民の一番行きたがったのはアメリカ、次はフランスなどであって、最初から日本を求めて逃げてきた人は少なかった。

 しかし、1年の定住であれ、2年の定住であれ、落ちつけるようにするには、額に汗してそこで得た収入で生活できるようにすることだと考え、私も難民事業本部長と共に街頭に出て、難民雇傭への協力を訴えたものだった。

 同時に、秋には「難民を励ます」というか「難民と共に語る」というか、毎年定住難民のための大会を開いてきた。これには品川区役所が協力してくれたが、今は、難民の拠点が品川から新宿に移り、大会開催の協力などは新宿区役所のお世話になっている。

 難民として日本にきた人達の多くは、今では、日本の永住権を持ち、併せて本国の国籍も持ちたいという形の人が多いのではないかと思う。私としては「日本にきてよかった」という印象を持ってもらえるようにするのが、大切だと言い続けている。これらの定住難民の多いところでは、難民の手によるお寺のようなものができていて、宗教施設と共に集まりの場所にもなっている。そんな場所にはお祝いに出かけたりしている。

 同時に、秋には「難民を励ます」というか「難民と共に語る」というか、毎年定住難民のための大会を開いてきた。これには品川区役所が協力してくれたが、今は、難民の拠点が品川から新宿に移り、大会開催の協力などは新宿区役所のお世話になっている。

 難民として日本にきた人達の多くは、今では、日本の永住権を持ち、併せて本国の国籍も持ちたいという形の人が多いのではないかと思う。私としては「日本にきてよかった」という印象を持ってもらえるようにするのが、大切だと言い続けている。これらの定住難民の多いところでは、難民の手によるお寺のようなものができていて、宗教施設と共に集まりの場所にもなっている。そんな場所にはお祝いに出かけたりしている。

昭和 58 年 4 月、国際救援センターを東京都品川区に開所。わが国に一時滞在しているインドシナ難民の急増と長期化への傾向に緊急に対応するため、自活または定住を希望する難民を入所させ、日本社会への適応に必要な日本語教育、生活指導、職業紹介等を行い、もってインドシナ難民援護の一層の合理化を図ることを目的とした。中曽根総理大臣(当時)もセンターを視察。
インドシナ難民雇用促進運動月間が始まる。「インドシナ難民に職場を住いを愛の手を」を合い言葉に全国的にくりひろげられた。運動初日には奥野理事長(当時)自ら先頭に立って新宿小田急百貨店特設会場と街頭で行きかう人たちに理解と支援を呼びかけた。大相撲の寺尾関(当時。現錣山親方)らも協力。(昭和60 年 10 月 1 日)
昭和 51 年 5 月から平成 20 年 3 月まで 32 年間財団の理事長を務め、安定的財政基盤を整えるとともに基幹的事業を確立した。(写真は平成 3 年、第 12 回「定住インドシナ難民とのつどい」でカンボジア難民の子供たちに囲まれて)
平成10 年 1 月、インドネシア、マレーシア、タイ、インドを訪問。アジアの歴史や激動するアジアの経済情勢を視察するとともに各国政府の閣僚らと会見。各国の福祉担当相には財団の招へい事業への協力に謝意を示した。写真はインドネシアのインタン・スエノ社会大臣を訪ねた時。(平成 10 年 1 月 8 日)
ベトナム定住難民が建立した寺院を訪問。祝意を示す。(平成24年11月)

6. アジアとの人材交流

 私が理事長を引き受けてから始めた事業に、アジアの国々から社会福祉にかかわる人を中心に、毎年5人ずつ日本に招く事業がある。お互い交流を重ねることが、相互の理解を深めることになる、理解を深めることが協力に発展し、協力は地域の安定に連なる、との期待で始まった。

 当初ベトナムの孤児を救援する事業を始めた時は、「中華民国台湾」が、中国を代表するものは一つであり、それは自国だと称し、国連の一員でもあった。ところが、国連総会で中国を代表するものは、面積や人口などからみて「共産主義の中華人民共和国ではないか」との説が出始め、昭和 47 年日本の田中内閣が、中国を代表するものは、中華民国台湾ではなく共産主義の中華人民共和国だ、ということにした。

 翌年、アメリカも中国を代表するものは、台湾ではなく、北京の中華人民共和国であると切りかえたが、さすがに、台湾との関係は従来の立法通り維持するとしている。

 日本では、日中の交流を図る多額の国庫補助金をうける団体が生まれたので、私達の団体は中国大陸との交流はそちらに任せ、従来通り台湾との関係を続けることにしている。ただそれは、中国を代表する台湾ではなく、形式的には地域を代表する台湾ということでなければ、大陸の中共が納得してくれないらしい。

 もう一つ韓国との関係がある。夫人が日本人で、その夫妻で韓国において孤児収容施設を経営して成果をあげていた。援助の為に私達の団体から 2,000 万円の寄附金をおくり、順調な日韓関係であったものの、何時しか韓国の中に排日施設が強化されてきた。これでは、日本が招いても日本に来にくいのではないかと思い、日韓関係が正常化するまで我々からの招聘を中止し「日韓関係が正常化したあかつき、更めてお招きしたい」と申し送ったら、先方も「そうして欲しい」ということであった。

スリランカの孤児院の子供達一人一人に、日本から持参したクレヨンと画用紙を配る。(昭和55年11月)
日本人戦没者の慰霊や墓参に協力してくれたフィリピン、バターン州ピラール市の人たちに対する感謝したいとの戦友たちの要請に基づき、財団が同市の青少年楽団に楽器を寄贈。日比両国の民間交流のために活用された。(昭和 62 年 10 月)
7. 財団ビルを建設

 外国との交流の多い団体は、よい場所に事務所を設け、経済力にも不安がない、ということが大切だと思い、この団体の事務所の用地について鈴木東京都知事のお世話で得られたことを書き添えておきたい。始めは四谷駅附近、次は新宿駅附近の土地を提示してくれたが、何れも満足できなかった。都知事は局長さん達を集め、積極的に協力を求めてくれた。おかげで、地下鉄の駅のまん前で、東、南、西の三面が道路になっている現在地を提示してくれた。これを提供する代わりに「必要最少限度にして欲しい」ということから分譲は半分にさせてもらった。住宅地区になっているので、ビルは4階建てにしかできない。都市計画が変われば6階建てにできる設計にしているが、その是非はその時に考えればよいことだろう。

 私は、理事長を約 32 年もつとめたので、今は名誉会長をつとめさせて頂いている。しかも、昨年満 100 才になった。なお健康に恵まれている。私のできることは何だろうかと考え、それは財団の財政力の強化に貢献することだろうと財団への寄附金を思いついた。ということでまとまりが悪くて恐縮ながら私の最初の話を終わらせて頂く。 (平成26年「愛」第37号より)